「科学的」とはなにか



こんにちは、けいです。



今日は科学的という言葉について書こうと思います。


科学的、と聞くと普通の人は「正しいことかな」とか「論理的と似た意味なのかな」とか考えると思います(以前は僕もそう思ってました)。

科学的という言葉を辞書で調べると、「考え方や行動のしかたが、論理的、実証的で、系統立っているさま。」とあります。(引用元:デジタル大辞泉



このうち、「論理的」というのは、論理学で言えば「推論が妥当である」ということです。推論が妥当であるというのは、前提Aと前提Bが真(正しい)であれば、結論Cも必ず真となるということです。

例えば、「ボールを投げて(前提A)、それを捕らなければ(前提B)、ボールは地面に落ちる(結論C)」という推論があったとします。この場合、前提Aと前提Bが正しければ、結論Cは必ず成り立ちます。このような推論が論理学では「妥当である」と言われます。

次に「妥当である」と「恒真である」の違いについてお話しします。この、恒真である場合には科学的の要件を満たしません。つまり、恒真であれば科学的ではないということです。

恒真である例は「私は走る(A)ならば、明日が雨(B)ならば私は走る(A)」などです(日本語が変なのはお許しください)。この場合、AとBが真であっても偽(間違っている)であっても、これは必ず真となる命題(文と思っていただいて大丈夫です)となります。このような命題を恒真命題と言い、この場合も推論は妥当となります。

(もっとわかりやすい恒真命題の例は、「私は立っている、あるいは立っていない」などがあります。この命題は必ず成り立ちます。)



しかし、恒真であるということは、必ず真であるということで、このようなことは「自明である」ので科学の対象にはならない(絶対正しいので実験などを必要がない)のです。

(これに注目したのが反証可能性という概念なので、よろしければ調べてみてください。)


このように科学的であるためには「推論が妥当である必要がある」。しかし「恒真であってはならない」のです。




次に、「実証的」という言葉について。

実証的とは、思考だけではなく、実験や体験などの事実によって導かれるさま、ということです。要は、科学的であるためには、データに基づいてなければならないのです。


なぜデータに基づいてなければならないのか、についての答えは、前提を真であることを証明するためである、だと考えられます。推論が妥当であるというのは、「前提が全て真であれば、結論も必ず真となる」ということなので、前提が真であるかどうかというのは、論理的であることは何も寄与していません

したがって、前提が真であるというのを担保するために事実に基づく必要があり、それを実証的であると言うのです。




最後に、「系統」についてです。

これは、順序があり、統一的な繋がりのことです。どういうことかというと、実証→論理→結論→実証→論理→結論→……という風に、順序を守り、それぞれが独立しておらずにつながっているのです。それぞれの結論が独立していて関係がないようなものは科学的ではないということですね。





以上をまとめると、科学的というのは、

推論が妥当であり、且つ恒真命題ではなく、事実に基づいており、それらが順序良く統一的である」という意味になります。